ここ最近、昼間はエアコンが必要なくらい暑かったのに、今朝はぐんと気温が下がった。半袖で寝ていたら夜中に寒さで目覚め、足元に蹴りやっていた薄手の毛布を肩まで引っ張り上げていた。
なにか温かいものをと思い、冷蔵庫を開けてスープになりそうな材料を探す。にんじん、長芋、エノキ、生姜。それぞれ中途半端に余っていたものを取り出し、まな板でざっくりと刻む。鍋に材料と昆布出汁を入れ、火にかける。沸騰した頃合いを確かめて火を弱め、キッチンタイマーをきっかり10分セットしてもう一度ベッドにゴロンと横になった。
ベッドからは空と木の連なりが見える。お気に入りの景色だ。冬は枯れてしまって寂しい風景になるが、植物が芽生える春から夏にかけては鳥たちもたくさんやってくる。
「この後、コーヒーでも飲みに行きませんか?」そんなふうに誘われたのは何年ぶりだろう。知らない男性と話したのもしばらくぶりだ。先日、久しぶりに映画を観に出かけた。リバイバルされ話題になった作品だったが、平日の映画館はガラガラだった。
中央の席を取り、スマホをマナーモードにしていたら、前の席に男性が1人座った。キョロキョロと辺りを見回している。待ち合わせだろうか。待ち人は来ないまま、映画が始まった。映画が終わり、エンドロールを最後まで観終わって映写室から出た途端、彼から声をかけられた。
初め、耳を疑った。「え?」と声が出てしまったかもしれない。不信感というよりも、驚きが表情に出ていたのではないかと思う。「突然すみません。ただ、一緒にコーヒーを飲む相手がほしくて」。彼はそう呟いた。
そんな誘いに乗ったのは、その後の予定がなかったことと、なんだか訳ありのように見えて好奇心がわいたからだと、いまでは思う。清潔感のあるきちんとした身なりをしていて、物静かそうな雰囲気。白のスニーカーは私が愛用しているブランドのものだった。一見、見ず知らずの女性に声をかけるようなタイプには見えない。「少しなら」と答えると、彼はとてもびっくりした表情をしてみせた。
わたしたちは映画館のすぐ目の前にある小さな喫茶店に入った。彼はコーヒーを、私はクリームが乗ったココアを注文した。何を話していいのかわからないまま、熱いココアを2口飲んだ。
「映画、おもしろかったですね」 「はい、あの監督が好きで」 「僕もなんです。昨日は楽しみで、遠足の前の日みたいになかなか寝つけませんでした」照れながら彼はそう言った。そして、「実は、今日ふられてしまいました」とも。
「先日、好きだった女性に告白して、もし可能性があるなら今日の映画に来てもらえませんか、とチケットを渡しておいたのですが。来てもらえませんでした」。わたしはなんと言っていいのかわからず、ただ黙って話を聞いていた。彼はそんなわたしに構わず、訥々と話し続ける。
「3年越しの思いが砕け散って、あまりにもやるせなくて。ついコーヒーにお誘いしてしまったのです。こんな話を聞いてもらってありがとうございます」。誰かに話したい時はある。しかも、事情を知らない赤の他人だからこそ、言えることだってある。
結局、30分ほど彼の話を聞き、店の前で別れた。お互い、名前や職業なども聞かず、ただ少しの時間を共に過ごした。ココアは彼がごちそうしてくれた。いま思い返すと、なんとも不思議な時間だった。まるで小説のようだとも思う。「では」「さようなら」。小さく会釈して、それぞれの生活へと戻っていった。
タイマーが鳴り、キッチンへ向かう。いまごろ彼も一人、朝食を食べているだろうか、と思った。 (R)