1年間だけ滞在したオックスフォードでは、半年間、戸建のシェアハウスで暮らした。ほかのメンバーはすでに2年ほど一緒に暮らしており、1名空きが出たところへ私が入居することになった。イギリス人のEvaとSteve、ドイツ人のRyanが暮らす家へ。
私たちが暮らしていたのは、イギリス特有の「セミ・デタッチド・ハウス」と呼ばれるタイプの住宅で、2軒で一戸をなす建物だった。1階には狭いリビングルームと台所、Ryanの部屋があり、2階にはほか3名の個室と小さなシャワールームがあった。こじんまりとした裏庭もあったが、物置と化していた。
私の部屋は4畳くらいの狭さで、デスクとチェア、シングルベッド、本棚でいっぱいだった。日本から持ってきた大きなスーツケースはクローゼットに入らず、半年間、部屋に出しっぱなしになっていた。家は住宅街の一角にあり、夕方になると、家の前の駐車場で近所の子どもたちが遊んでいる光景が目に入る。
台所もとても狭く、小さな流しに電気コンロが2つ、台所の狭さにそぐわない大きな造り付けのオーブン、そして洗濯機があった(イギリスでは台所に洗濯機がある家が多い)。
Evaとは台所でよく顔を合わせた。彼女は時々、祖母から習ったというスコーンをつくってくれた。彼女のお気に入りはSainsburys'(スーパー)の全粒粉。スコーンをつくるためだけに、粉の袋が常に2つはストックしてあった。オーブンから立ち上る焼きたてのスコーンの匂いは家中に満ち、みんながその匂いに惹きつけられる蜂のように台所へと集まってきた。
「スコーンにはクロテッドクリームをたっぷりのせるんだよ」と、教えてくれたのも彼女だった。冷蔵庫から冷えたクリームとラズベリーのジャムを取り出し、銘々が皿の上でスコーンにたっぷりとのせる。紅茶を淹れるのはSteveの担当。きちんとお湯でポットやカップを温め、茶葉をジャンピングさせるのも忘れない。
私たちはその日にあった出来事を少しだけ話し、耳を傾け、そしてそれぞれの部屋へと戻る。お互いにあまり深い話はしなかったけれど、自分の部屋で誰かの気配を感じられる暮らしでは、なんとなく淋しい気分の日も、気持ちが少し楽になるような気がした。
Evaはとても気さくで、彼女のあけすけな性格が好きだった。いつも陽気で、笑った顔しか思い出せないくらい。ただ一度だけ、Evaが落ち込んでいる姿を見たことがある。私が帰宅したとき、彼女は玄関の前の石段に座っていた。「今日はちょっと悲しいことがあったんだ」とだけ、彼女は言った。彼女が話すのを待ったが続きはなさそうだったので、私も隣に座り、ただ黙って子どもたちが遊ぶ姿を一緒に眺めていた。
その日は土曜日だった。めずらしく4人で食事をしようということになり、Ryanが買い置きしていたビールやジンなどをリビングに並べ、Evaと私は台所で簡単な料理をつくり、Steveは好物のチップスを部屋へと取りに行く。Ryan特性のフレッシュジュースを使ったカクテルはとても美味しく、つい飲み過ぎてしまう。Evaはいつもの様子でケラケラとよく笑い、よく食べて、よく飲んでいた。しまいには音楽に合わせ、誰もが踊っていた。
翌朝、まだ片付けが終わっていない台所へ行くと、すでにEvaの姿があった。昨夜の汚れた食器を洗っているところだった。私は2人分のインスタントコーヒーを淹れ、籠に盛ってあった果物に手を伸ばす。二日酔いの体には少し酸味のある果物が美味しい。
「楽しい夜だったね」と笑い、Evaはヨガのクラスに颯爽と出かけていった。私はしばらくの間、リビングでテレビのニュースを見て、重い腰を上げる。ほかの2人が起きてくる前に、洗濯を済ませたい。彼らが起きてきたら、残りの片付けをしてもらおうと思いながら。