「ポルトガル」という言葉の響きが気に入っている。以前、なにかで読んだのだが、「パピプペポ」の音が入っている固有名詞は人間の関心を強く引くらしい。もちろん、それだけが理由ではないけれど、ヨーロッパを訪れたら、ポルトガルには必ず行こうと思っていた。
リスボンは坂の街だ。入り組んだ狭い路地が連なり、街の象徴ともいえる愛らしい路面電車が走っている。サンフランシスコにはまだ行ったことがないけれど、写真や映像で見るサンフランシスコの街をこじんまりとさせたような印象を持った。
朝早くにホテルを出て、街を散策する。7時半だというのに、すでに結構な数の観光客らしき人たちの姿があった。みんなTシャツに短パンやスカートといった気安い格好で、カメラを手にしている。私も有名なモニュメントを写真に収め、ベンチに腰掛けてしばらく海を眺めていた。
日本に帰ったらやらなければいけないことが頭をよぎるも、どれも現実味を帯びていない。旅を初めてもうそろそろ2ヶ月になろうとしていた。そもそも、私は日本に帰るんだろうか。帰りたいんだろうか。旅の間つけていた日記帳は最後のページまで埋め尽くされている。「次に訪れた街で新しいノートを買おう」と、先日まで滞在していたスペインの街でそう思った。
空腹を覚え、近くのカフェに入った。朝食に、焼きたてのクロワッサンとカフェオレを注文する。クロワッサンからは濃厚なバターの香り。表面はパリパリとしていて、中はふわふわ。あっという間に食べ終わり、皿の上に散らばった皮のかけらも指で集めて口に入れる。あまりに美味しくて、ショーケースの中で隣に並んでいたチョコレート入りのパン・オ・レザンも追加で頼んだ。
店内では10名ほどの人が朝食をとっていた。新聞を読んでいるビジネスマン、観光客風の初老の夫婦、熱心にノートパソコンのキーボードを叩いている若者。カウンターでは80代に見える男性が、店のスタッフと楽しそうに話している。狭い店ながら、大きな窓からは心地よい風がスッと入り、開放感すら覚える。
「あぁ、こんな場所が私の暮らす街にもあればいいのに」。週に2度は通って朝食をとったり、夕食後にふらっと訪れて冷えた白ワインを1杯だけ飲んで帰ったり、なんてことをしたい。行きつけの店があるだけで、生活はぐんと豊かになる。
店の人と仲良くならなくてもいい。ただ「おはよう」「こんばんは」と挨拶だけ交わし、あとはそっとしておいてくれる距離感が理想だ。読みかけの本の続きを読んだり、仕事をしたり。そして、散歩がてら家までの道を歩いて帰る。
そんな妄想をしていたら、時間はあっという間に過ぎていく。会計を済ませて店を出るとき、可愛らしい店のスタッフが「Have a nice day!(良い一日を!)」と笑顔で言った。「You too.(あなたもね)」と返し、目当ての教会へと向かった。
ヨーロッパでは、必ずその街の教会を訪れるようにしている。そのほとんどは街の中心に位置していて、そこに暮らす人たちの生活と密接に結びついている。ちょうどパイプオルガンの演奏中だったので、ベンチに腰掛け、しばらくその音色に聴き入っていた。石造りの教会では楽器の音が反響し、その振動を全身で感じることができる。信者の人だろう、斜め前の席では一人の女性がひざまづき、両手を組んで目を閉じていた。
路面電車に乗り、坂の上にあるホテルまで戻った。ホテルの部屋から、オレンジ色の屋根がどこまでも続く街と海を見下ろす。散歩の途中で買ってきたエッグ・タルトを齧りながら、本の続きを読む。夕食まであと3時間ほど。今夜は、昨日知り合ったオーストリア人の女性と一緒に夕食をとる約束をしている。地元で評判の店に連れて行ってくれるらしいので楽しみだ。少し仮眠して、シャワーを浴びる時間もたっぷりとある。
「ほんの少しだけ」と、帰りに小さな文具屋で買ってきたノートを広げる。手のひらサイズの厚みのあるノート。背表紙には鮮やかなブルーが使われている。ポルトガルの海を連想させる美しい色に惹かれて、思わず手に取った。文具店の店主に「beautiful color(きれいな色)」と伝えると、にっこり笑いながら「This is my favourite.(私のお気に入りなんだよ)」と返ってきた。
いまの気分を3行だけノートに綴り、そっと表紙を閉じる。もうしばらく続くだろう旅の、新しい相棒。どうぞよろしく。(R)