top of page

クラクフのペンパル

中学生の頃、毎月のように買っていた雑誌には、時々「ペンパル協会(みたいな名前だったと思う)」の案内が掲載されていた。協会の事務所へハガキを出して会員になると、毎月、海外のペンパルの住所が掲載された一覧表が自宅へ送られてくるという仕組みだった。



当時、海外への憧れが強かった私は、外国に友人を持てたらステキだろうな、という思いに駆られていた。加えて、「ペンパル」という言葉の響きにも惹かれていたのだと思う。会ったこともない、外国の人と手紙を交換するなんて。考えるだけでドキドキした。



最初にペンパルになったのは、タイの女の子だった。音楽好きの彼女は、自分で録音したタイ人アーティストのミックステープを送ってくれたことがある。カセットテープをデッキに入れてボタンを押すと、聞いたこともないリズムの音楽が流れ出した。歌詞などわかるはずもなく、ただただ音楽を聴いては、「これがいま、タイで流行っているんだ」と感動したのを覚えている。



英語で手紙を書くのに慣れた頃、アフリカはタンザニアの女の子にも手紙を出した。彼女は学生服姿の写真を送ってきてくれた。タンザニアにも日本と同じようなセーラー服があるのを知ってとても驚いた。独特のクセのある文字は正直読みにくかったけれど、アフリカから2週間以上かけて届く手紙を郵便受けに見つけるたびに、世界とつながっているんだと気持ちが高ぶったのを覚えている。



彼女はとても大きな湖の近くに住んでいると書いていた。地図帳を開いてその湖を探し出し、両親に「ほら、この手紙はここから来たんだよ」と言うと、両親は目を丸くして「信じられないね」と言った。しかし、そのうち学校生活が忙しくなったこともあり、2人との文通はそのまま自然消滅してしまった。



それから20年以上が経ち、ふとペンパルのことを思い出す瞬間があった。いまはネットで手軽に世界中の人とメッセージを交換できるけれど、やっぱり紙に書かれた手紙はよい。封筒や便箋は外国の匂いも一緒に届けてくれるので、封を開けるなり、その匂いを思いっきり吸い込むのも楽しみの一つだった。



オンラインで海外の人とやりとりができるサイトを見つけた。そこには、希望者は登録時に「手紙希望」と表示することもできるとあった。久しぶりに心が浮き立ち、登録することにした。実際に手紙の交換を希望する人は少なく、やはり手軽なオンラインでのやり取りを望む人が多いようだった。そんななか、ポーランドのクラクフに暮らすCは、手紙の交換を希望する数少ない女性だった。



私はさっそく手紙を書き、ポーランドへ届く分の切手を貼って投函した。2週間ほど経った頃、仕事から帰ると郵便受けに返事が届いていた。初回の手紙にはお決まりの写真が同封されていた。



Cはとても大人びてきれいな女性だった。同年代ということもあり、お互いの仕事のことや彼氏のこと、普段食べているもののことなどを綴り合い、次第に便箋の枚数は増えていった。彼女は便箋の裏表を、小さな文字でびっしりと埋め尽くしていた。



Cはデザインの仕事をしているといい、一度などは自分がデザインしたイスのパンフレットを同封してくれたこともある。そして毎回、必ず何か小さいもの(メモ帳やチョコレートなど)を同封してくれた。私の誕生日にはバースデーカードと一緒に、良い香りのするハンドクリームや厚みのあるノート、クラクフを紹介した冊子、お菓子などを送ってくれた。



会ったことはないのになんでも気安く話せる彼女を通じて、まだ訪れたことのないポーランドという国をとても身近に感じるようになった。ゆっくりとしたペースで3年ほど手紙のやり取りをしていたが、私が大きなケガをしてしまい、自分の生活のことでいっぱいになってしまった時期があった。海外に手紙を出す余裕などなく、Cに返事を返せないまま、手紙は途絶えてしまった。



2年ほど間が開いた頃、ロシアのウクライナ侵攻のニュースを目にした。秋にはポーランド領内にミサイルが着弾し、民間人が犠牲になったと聞き知った。そのとき初めて、ポーランドとウクライナが隣同士の国だと知った。まず頭に浮かんだのがCのことだった。



Cはクラクフの街の美しさを手紙でたくさん知らせてきてくれていた。「凍えるような冬の朝には町中を霧が覆い、次第に明るくなる空と相まって、とても幻想的な光景が見られます。いつかヨーロッパに来ることがあったら、ぜひともクラクフに立ち寄って。狭いアパートだけど、好きなだけ泊まっていっていいからね。連れて行きたいところがたくさんあるし、あなたとゆっくり話がしたい」と綴ってあった。



私はニュースを見てすぐに手紙を出したけれど、まだ返事は返ってこない。彼女の安否を知りたいものの、情勢が不安定で手紙が届く状況じゃないのかもしれない。かつて登録していたサイトも解約済みなので、彼女へメッセージを送ることもできない。もし住所が変わっていれば、彼女と連絡を取ることは二度とできないだろう。



ただただ、彼女が元気で暮らしていることだけを願っている。もし、また手紙を再開できたら、もっとポーランドの文化や歴史について教えてもらいたいし、いつか、彼女に会いに行きたい、と思っている。


最新記事

すべて表示

オックスフォードで暮らした家

1年間だけ滞在したオックスフォードでは、半年間、戸建のシェアハウスで暮らした。ほかのメンバーはすでに2年ほど一緒に暮らしており、1名空きが出たところへ私が入居することになった。イギリス人のEvaとSteve、ドイツ人のRyanが暮らす家へ。...

オックスフォードという街

オックスフォードは思ったよりもこじんまりとした、のどかな街だった。ハリーポッターが日本でもブームになった数年後、1年間暮らした。 シティセンターと呼ばれる中心街には大型スーパーや郵便局、銀行、小さな路面店などがギュッと集まっている。生活に必要なものはなんでも揃う。かの有名な...

ヤマザキ

実家のある町には、私が高校生の頃まで「ヤマザキ」があった。そう、ヤマザキパンのチェーン店、いまでいうところのコンビニみたいな小店で、パンはもちろん、ケーキやホットショーケースに入った肉まん・餡まんなども売られていた。 高校へ通うバス停のすぐ近くにあったこともあり、よく店に足...

bottom of page