スウェーデンのストックホルムで、夕方、海辺を散歩していた。2日前、ヨーロッパを周遊する長距離バスEurolinesで到着したばかりだった。強烈な夏の西陽を浴びながら、私はスケッチブックを広げられる場所を探していた。
絵心があるわけではないけれど、旅先では何かしら絵を描くことにしている。無数のボートのうちの1隻を描いていると、背後から低い声がした。
「Are you an artist?(アーティストなの?)」
見ると、50代後半くらいの男性だった。短パンにビーチサンダルといった、いかにも近所を散歩している風のいでたち。頭には髪の毛がなく、つるりときれいに剃り上げられてある。
「No. I'm just painting.(いいえ。ただ絵を描いてるだけです)」と答えると、私の絵を褒め、横に座って話を始めた。自分は地元の画家であること、ストックホルムの街が素晴らしいこと、などについて。
アーティストは美術館の入館が無料で、同伴者を連れていくこともできるという。「Why don't you come with me tomorrow?(明日、一緒に行かないか)」と招待された。
翌日、館内で絵のレクチャーを受けた後、彼のアトリエで絵を見せてもらう。色彩が鮮やかながら、どことなく寂しい印象を受ける絵画だった。風景画が多かったが、1枚だけ女性のポートレートもあった。
お気に入りの場所があるから、明日ぜひ連れて行きたい、と再び誘われた。普通であれば、よく知らない人と車で出かける場面は避けるのだが、彼の醸し出す雰囲気はとても穏やかで、ついて行っても大丈夫だろうと思わせた。
翌日、車で1時間ほどの場所にあったのは、とても美しい湖だった。深いグリーンの湖面の周囲は見渡す限り森に包まれている。鳥の声以外は何の音もしない静寂な場所。
彼はおもむろに湖に飛び込み、泳ぎ始めた。湖面から顔だけを出し、「You can swim, too!(君も泳ぎなよ)」と叫んでいる。私は着替えがなかったので、岸辺に座って膝下だけを水面に浸す。水がとても冷たくて気持ちいい。私たちは会話することもなく、しばらく思い思いの時間を過ごした。
持参してきた本を読んでいると、スッと目の前に包みが差し出された。車で迎えにくる前に、昼食を調達してきてくれたらしい。香ばしいバゲットに、チーズとハムが挟まれただけのシンプルなサンドイッチ。リンゴジュース、オレンジジュースのどちらがいいかと聞かれ、迷わず瓶に入ったリンゴジュースを選ぶ。
翌日にはストックホルムを経つことになっていた。そのことを告げ、2日間のお礼を伝えると、最後に自宅で夕食を振る舞いたい、と彼は言った。なんとなく気が進まず、丁重にお断りした。すると、一瞬とても寂しそうな表情を見せたものの、すぐに「元気で旅を続けるんだよ」と、笑顔を見せてくれた。
翌朝も快晴だった。海と空の境界が曖昧な色彩豊かな青。バスに乗り込んで出発を待っているとき、これからどれだけの出会いを経験するのだろう、と胸が熱くなる。
数年前、旅先で2日間を共に過ごした、もう名前も忘れてしまった人が、今もきっとストックホルムで暮らしている。そう思うと、胸の辺りがじんわりと温かくなった。(R)