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土鍋のひび

毎日使ってきたごはん炊きの土鍋にひびが入った。


11年前、義理の両親が誰かの結婚式の引き出物でいただいたのをもらったものだった。

それからずっと家族と友達にたくさんのごはんを炊いてきた。

この鍋でならどんな季節でも、匂いと音を頼りに美味しいごはんが炊けるようになった。



残念だけど形があるものはいつか壊れる。

ありがとう、お疲れさま、と言いたい。



大学の卒業制作で、モノと人との関わりについて研究をした。

そのときに「私たちは自分がモノを選んでそれを使いこなしているように感じているけれど、実はモノのほうが、私たちに行動を促し繰り返しの習慣を行わせているのではないか」という考えに至った。

その繰り返しの習慣が、わたしの毎日を作っている。


この土鍋だって、土鍋があるから火をつけ匂いを嗅ぎ、パチパチという音を聞いてごはんを炊いた。

一連の流れはいつの間にか体に染みついて、特別に意識することもなく何度も何度も繰り返した。

日々、同じことを繰り返していけるということはとてもかけがえのないことだ。

それらがなくなったとき、わたしはわたしでいるのだろうか。



いつか、わたしの頭のなかが変わってしまって夫のことを忘れたり、思いもかけないことが起きて持っているものを全て失ってしまったときでも、もしかしたら、習慣を思い出させるモノを手にすることで、昨日までの自分を少し取り戻せたりするのかもしれない。


なんてことを考えながら、記憶の奥深いところに私たちのことを仕舞い込んだ義母を見てみるが、ひとはそんなに単純でもないらしい。


さて、新しい土鍋を探さないとな。2015 冬(C)



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